国語講師の落書

つれづれなるままにiPhoneに向かひて。

お洒落とは

18歳の時から考え続けてきたこと。お洒落とは何か。

 

21歳の時、1つの結論にたどり着いた。

 

お洒落とは複雑性である。

 

1つの客観的な指標として、ファッション業界でのお洒落が客観的なお洒落だとしよう。そして、より世界的に認められている業界人にとってのお洒落が至極のお洒落だとする。

 

その前提で、業界人のファッションはコアになればなるほど、光る。

 

粒のような白い光が見える。キラキラしてる。

 

こういう人たちに共通していたのは、一目では何を着ているかわからない、再現できない、印象しか頭に残らないことだ。

 

なぜ、そうなるかと言えば、複雑だからだ。

 

 

「やん」について

W杯、日本敗退で以前ほどのほとぼりも冷め、後日談(ピロートーク)が交わされる今日この頃。

 

今日のエンタメニュースで西野監督の「ある小さい選手」とかいう御涙頂戴系話が報じられていた。

 

内容はともかく、その話のレスポンスとして当事者の長友選手がツイッター

 

西野さん、ブラジルW杯経験してる小さな選手って。。笑バレバレやん。。苦笑(原文ママ)

 

とツイート。

 

長友氏は愛媛県西条市出身なので「バレバレやん」はお国言葉なのだろうけれど…

 

『君は関西人でもないのに語尾に「やん」をつけたことがあるか』

 

私はある。しかも頻繁に。

 

これは私だけではないだろう、もはや「やん」は「ワロタ」と同じ標準スラング

 

おそらく、(笑)と同じ用途で用いられているだろう。

 

関西弁にしただけでユーモラスに感じるのはテレビでお笑い芸人が多用しているからでまず間違いはない。

 

もう、標準語はフォーマル、関西弁はカジュアルってことにしていいんじゃないか。

 

関西弁は一つの表現技法なのだ。

ご飯は作ってもらった方が美味しい。

電車でスマホ見てた時のこと。

孫正義氏による学生向け講談会の様子がネット記事になっていた。

 

孫氏曰く「夢と志は違う。夢を叶えることは自分の欲を満たすこと。志を高く持つことは世のため人のためを思うこと。志を高く持って社会に出て欲しい」

 

ふむふむ、いい話。ふとバナー広告を見るとエッチな漫画が。

 

クリック。

 

このエロ漫画、なかなか攻めてるなあ。というか、ギャグ要素強い。でもしっかりエロい。

 

…ん、んん!?!?!

 

エロ漫画家ってものすごい志高いんじゃないか?!

 

解説。

 

ご飯は自分で作るより、人に作ってもらった方が美味しい。この法則はエロにも当てはまる。

 

中学生の時、まだネット環境を持ってなかった私は保健体育の教科書を参考に自作のエロ本をつくったことがある。

 

しかし、全然エロく思えなかった。自分で生み出したエロで興奮することはできなかったのだ!

 

これはきっとエロ漫画家にも同じことが言えよう。エロ漫画家は自分の作品では抜けない。

 

だとしたらなんのために、一人でコツコツとエロを生み出し、読者を興奮させるのか。

 

それは彼らは自分の欲のためでなく、世のため人のために仕事をしている志の高い人々だからだ!

 

天晴れエロ漫画家。幸あれ。

 

 

 

すばらしい乳房だ蚊が居る

″すばらしい乳房だ蚊が居る″

 

実はこれ、″せきをしてもひとり″でお馴染み、尾崎放哉の句だ。

 

自由律俳句のパイオニアといえど、先駆的過ぎる名珍句である。

 

尾崎ってエッチだね、みたいな話をしたいのではない。今回は、この句が詠まれる文脈や尾崎に関する前提知識を何も知らないまま二つの解釈を提示したい。

 

1.蚊がいるからすばらしい乳房だと思ってる

 

尾崎の美的センスが異端であることを表しているのだろうか。あるいは博愛主義者の尾崎が蚊にさえ乳を吸わせる女の優しさに感銘を受けているのか。あるいは蚊も吸いたくなるほど美味そうな乳房なのか。

 

いずれにせよ、尾崎がすばらしいと思う乳房には蚊がいるという解釈だ。変態である。

 

2.すばらしい乳房だと思ってたら蚊がいた

 

あゝ、君の乳房はなんてすばら…蚊が居る!!

 

ノリツッコミのようなテンションである。

 

私は後者の解釈が好きだ。エッチな気分で乳房を見つめてていたら、その余韻をぶち壊す小さな蚊の存在に静かに、そして瞬時に萎えゆく尾崎の尾崎をありありと表現しているすばらしい句だと思いたい。

 

ところで以前、友人と酔っ払いながら街を歩いていた時。道路にマックのポテトの箱みたいなやつが捨てられ、車に轢かれてペシャンコになっていた。それを見た時思わず、

 

「マックが死んでいる」

 

と呟いた。これは自由律俳句だったんだな。

 

ありがとう!尾崎放哉!

 

ピンサロについて。

休日は暇だ。

 

余暇を楽しむというが、前提として暇だから楽しめるのだ。遊びに行くにしても、寝て過ごすにしても、暇だからだ。

 

やらねばならぬことがある日を休日とは言わない。

 

これを書いた時ふと思い出した。高校のテスト期間に女子が「私まだノー勉ー、やばーい」と言っていたのに対し、「ノー勉」とはテスト期間にも関わらずまだ勉強をしてないこと、ではなく、それに加えて授業も聞かずノートもとらない、教科書も開いたことがない状態だと言った覚えがある。まるで「王手」と叫ぶように。今思えば、我ながら清々しいマウンティング。

 

こうして普段授業をちゃんと聞いてる真面目な人間を嘲笑うことで勝手にイニシアチブを取っていた青春の一ページ。

 

…閉じよう。

 

孤独な日曜日を夕方まで無駄遣いしたのち、自転車で吉祥寺に繰り出した。あてはない。

 

ふらふら漕いで、なんとなくすうさい堂に辿り着いた。「牛乳の作法」を200円で購入。これを肴に井の頭公園で一服しようと、また自転車を漕ぎ出す。

 

その折、ピンサロみるくしぇいくの前を通った。

 

ちょうど通りかかった時、一人の客が店に入っていった。

 

初老。冴えない独身、髪はあるが服は汚め、小柄のどこにでもいそうな初老。

 

衝撃的だった。いや、もちろんかく初老だってピンサロ顧客層の住人であることは以前から想像がついていたが、想像上の生き物がリアリティのある世界で眼前に現れたのだ。それはショッキングだった。

 

ピンサロって仕事は大変だな、小並感。

 

私は風俗に行ったことがない。なので実際、内部でなにが繰り広げられてるかは知らない。しかし同僚曰く、行為の前には一定のコミュニケーションを取る必要がある。一体、あの初老は嬢となにを語らうのだろうか。

 

想像を膨らませることは容易いが事実を突き止める術は無い。

 

事実を突き止めたとしても、ファブリーズの成分くらい興味がない。

 

…、これは滑った、あるいは読者を怒らせただろうか。

 

さて、

 

「君はオフの嬢に会ったことがあるか」

 

店の外で、彼女たちの日常の登場人物として参加したことはあるだろうか。

 

私はある。

 

普通に友人として接していて、後から夜の仕事をしていると知った瞬間、何故だか彼女がとてもエロく思えた。

 

この感覚、「あのキャバ嬢、実は女子大生」と「あの女子大生、実はキャバ嬢」では感じ方が違う現象によく似ていると思う。

 

消え入るタバコの火を見つめながらそんなことを考えてたら、すっかり夕日は落ちていた。

 

 

 

「いただきます」について。

昨日の夕方、授業前になんとなく激辛ラーメンが食べたくなったので、最寄りのラーメン屋に行った時。

 

店に入ると大学生のおそらくカップルが今まさにラーメンを食べようとしていた。

 

女は肩が丸出しのトップスで髪色は明るめのロング。どこにでもいそうなファッションだった。しかし、その表情や口調から

 

「私女友達少ないんだよね、男友達の方が楽だわー、女嫌いだわー」

 

と今にも言いそうな「自称マイノリティ女子」だとわかった。そういう女に限って「自称ガードが硬い」だが、下ネタに抵抗がないので簡単にやれそうと思いきや、本当にガードが硬いので世の男性諸君は気をつけた方がいい。

 

ちなみにこの手の女が友達だと思っている男たちはこの女のことを「やれそうでやれない少しやれるワイフ」程度にしか思っていない。

 

さて、男の方はというと。うーん、なんとも、五感で感じられる彼の全てがうだつの上がらない感じだった。

 

きっとシックスセンスを働かせてもうだつが上がらないのだろうからこれ以上彼の関連事項に私の貴重な脳内データ容量を喰わせるわけにはいかないと思い、代わりに「コンドームは今度産むって考えたやつ天才だなあ」と考えていた矢先の出来事。

 

女「いただきまーす!」

男、無言で食べ始める

女「ちゃんといただきますって言って!」

男「...(もごもご)、俺そういうのしない主義だから。キリスト教じゃねえし」

女「関係ないから!食べ物に感謝だよ!仏教にもあるよ!」

 

この偏差値の低そうな会話について。あえて女をモラルハラスメンティストとして批判することはここではよそう。

 

ところで、『君はファミチキを食べるときに「いただきます」というだろうか』。

 

私は言わない。言っている人を見たこともない。しかし女の論理によると、食べ物に感謝してラーメンにもファミチキにもうまい棒にも「いただきます」は言うべきなのだが...。

 

ここで「食べ物に感謝」とかいって「いただきます」って言えば死んだ動植物に許してもらえるって思ってるのは人間のエゴじゃないか、みたいな話は置いておいて。

 

「いただきます」の有無の線引きはどこで決められているのか。この答えはシンプルだ。一人で食べるときは「いただきます」と言わない。同じ食卓に例えば家族や友人、恋人がいるとき、近くにシェフがいるときなどは「いただきます」と言うのだ。実は「いただきます」は食べ物に対して言っているわけではない。これから食べるという旨を他者に宣言する行為なのだ。

 

そして、その宣言を怠るということは他者の許可を得ることなく食べることになってしまう。だから女は男に怒ったのだ。私の許可なく食べるな、と。

 

なんとも穿った見方であることは重々承知。

 

では。 

 

追伸:男はベッドで「いただきます」といえばきっと許してもらえるのだろう。